私は50代半ばの頃、1年間だけ農場部門で働いたことがあります。
それまでにもさまざまな仕事を経験してきましたが、農業の仕事は初めてでした。
農業というと、のどかで自然に囲まれた仕事を想像する人もいるかもしれません。しかし実際に働いてみると、楽しいこともありましたが、想像以上に大変なこともたくさんありました。
斜面での大根の種まき

今でも忘れられないのが、大根の種まきです。
しかも平らな畑ではありません。広い斜面でした。
腰をかがめながら種をまき続ける作業は想像以上にきつく、足元も不安定です。
「腰が折れそう」という言葉がありますが、そのときは本当にそんな気持ちでした。
農業は体力が必要な仕事だと身をもって知りました。
一番困ったのはトイレだった
意外に思われるかもしれませんが、私が一番困ったのはトイレでした。
朝6時に現場へ出ると、昼まで戻れません。
現場にはトイレがなく、ひたすら我慢しなければなりませんでした。
若い社員さんたちは平気そうでしたが、私にはなかなか大変でした。
どうしても我慢できないときには、社員さんが車でトイレのある場所まで連れて行ってくれました。
野菜づくりの苦労というより、こうした現実的な問題の方が印象に残っています。
インゲン摘みは楽しかった

いろいろな作業の中で、私が好きだったのはインゲン摘みでした。
葉の陰に隠れているインゲンを探すのが楽しかったのです。
ぱっと見ただけでは見つからなくても、葉をかき分けると立派なインゲンが隠れています。
まるで宝探しのようでした。
きっと私の性格に合っていたのでしょう。
農作業の中にも、自分に向いている仕事と向いていない仕事があることを知りました。
収穫時期を迎えたインゲン畑は、緑一色ではありません。葉は黄色く色づき始め、長い畝は小さな洞窟のようになります。
真夏の強い日差しの日でも、その中に入ると驚くほど涼しく、私はその時間が好きでした。
二度とやりたくない仕事

反対に、できればもうやりたくない仕事もありました。
キャベツにつくヨトウムシの駆除です。
茶色い虫が葉の陰に隠れていて、見つけたら駆除しなければなりません。
踏みつぶしてもなかなか死なず、独特の嫌なにおいもします。
作物を守るためには必要な仕事ですが、あれだけは好きになれませんでした。
畑で見た新婚夫婦

農場には山形から群馬へ来た新婚の社員夫婦がいました。
とても仲が良く、いつも二人で行動していました。
もちろん仕事はきちんとしているのですが、新婚らしい雰囲気が漂っています。
私はそれを見るたびに、何となく居心地の悪さを感じていました。
今では笑い話ですが、そんなことも農場での思い出の一つです。
今でも忘れられない主任の言葉

農場には主任を含めて3人の社員がいました。
ある日、その主任がこんな話をしてくれました。
「人間は二種類いる。良かれと思っていろいろな案を出してくれる人がいる。でも俺たちは、これがベストだと思ってやってきた。新しい試みをしたい気持ちは分かるが、変える気はない。だから、おとなしく従ってくれ。」
当時の私は、いろいろな仕事を経験してきたこともあり、「もっとこうしたら良くなるのではないか」と考えるタイプでした。
だからこの言葉は強く胸に刺さりました。
正直なところ、その場では全面的に納得したわけではありません。
しかし年月がたった今でも、その言葉を忘れることができません。
変えてはいけないこともある

世の中には変えた方が良いことがあります。
新しい工夫によって便利になることもあります。
私自身も、どちらかといえば変えようとする側の人間でした。
けれども長い年月をかけて積み上げられた経験や知恵の中には、簡単に変えてはいけないものもあります。
農場での一年間を振り返ると、私の心に一番残っているのは農作業そのものではありません。
主任のあの言葉です。
「変えようとする人間」として生きてきた私だからこそ、今になって思います。
変えなければならないこともある。
しかし、変えてはいけないこともある。
そのことを教えてくれたのが、あの農場で過ごした一年間でした。


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