母は父の従妹だった
私の両親は従兄弟どうしでした、中々嫁がこない息子に、息子の母親が娘が沢山いる姉の家に嫁を貰いに来たと言われて育ちました。
祖父は猛反対したと聞いています。
しかし、人のいい母は結局父に嫁ぎました。
嫁いだその日から始まった苦労

嫁いだ日から農作業、生活全般が母に降りかかったそうです。
叔母である義母が、良く躾られた姉の子供と自分の子供を比べて、母が気に食わなかったようです、
生活費は義母が握っていたため母はズボンさえ、買えなかった
母と祖母は喧嘩が絶えず何度か別居をしました。
ダムに沈んだ、川原湯、横壁
横壁に住んでいる時は、ある日風が強く吹きすさび、ある、
冬の早朝目、が覚めるとふとの上に雪が積もっていた時がありました、目を凝らすと目の前には夜空に星空が見えました。
一般的にその集落は貧しかった、サツマイモの天ぷらを夕飯に母が揚げいると、遊んでいた近所の子供が暫くのぞいていて帰らなかった、私はそのさつま芋の天ぷらを食べる権利があることに誇りさえ感じた、私達は大切に育てられてると子供心に感じた。
草津温泉での生活

一度義実家の家に帰ったのですが、争いが激しくなり母は二度と帰らない覚悟で私達家族は草津温泉を目指しました。
父は番頭、母は女中として別々の旅館で働き始めまそた。
旅館の中は入り組んでいて、当時エレベーターなどありませんでした、重い配膳を何段も重ねて運ぶ母が不憫で心配でした。
母の収入だけで育った私達兄妹
父は収入を母に渡さなかった、私達は母の収入だけで育てられました、
母を助けたい。
将来は旅館で働こう。
子どもの頃はそう思っていました。
母は苦労の多い人生だったと思います。
けれど、私たち兄弟をとても大切に育ててくれました。
最後のお正月
祖父が入院して事態は変わりました、母は熟慮の末、義実家にもどることを決意、その後
祖父は老衰で安らかに永遠の眠りにつきました。
兄が買ったカラオケ機材
最後の正月は兄が買ったカラオケで家族でカラオケ合戦、母も歌いました
母は本当に楽しそうだった。

結婚式の招待状が届いた朝
8月11日(この年は雷による被害の多い年でした)
母が亡くなった日のことは、今でも鮮明に覚えています。
その日の朝、結婚式の招待状が届きました。
母はとても嬉しそうでした。
不安だらけの結婚
何度も招待状を手に取り、落ち着かない様子で見ていました。
どこかそわそわしていて、娘の結婚を心から喜んでいるように見えました。
娘の将来がそれほど心配だったのでしょう、
外は雲ひとつない爽やかな青空でした。
私も母も、この結婚に少し不安を抱えていました、「子供を連れての再婚や」、「お見合いの相手に愛情がなかった」ことが原因です。
それでも私は、母が喜んでくれるのならと思い結婚を決めました。
その朝、母と交わした最後の言葉は、
「行ってきます」
でした。
お盆を迎えるためにお墓の掃除
母が雷に打たれた場所はお墓です、除草や掃除をしていました、
場所は高台にあって、背後には他のお墓までも飲み込むよう周囲に杉の木がそびえ立っていました。
その杉の木に雷がおちたのです。
まさか、それが最後になるとは思いもしませんでした。
午後になり、父方の叔母が勤め先にやって来ました。
母が雷に打たれた
母が雷に打たれ、病院に運ばれたという知らせでした。
病院へ向かう車の中では、
母は元気で治療何を受けているとばかり思っていました。
こんなにも深刻なことになっているとは夢にも思わなかった。
病院へ着くと、父はうなだれていました。
兄は涙を流しながら親戚へ電話をかけていました。
心臓マッサージ
処置室では医師たちが懸命に心臓マッサージを続けていました。
しかし、その願いは届きませんでした。
母は帰らぬ人となりました。
外は曇り空で、遠くから時折雷の音が聞こえていました。
つい数時間前まで元気だった母が、もう二度と目を開けることはありませんでした。
看護師の妹が現場に駆けつける
この日は妹が夜勤で家にいて寝ていました、『妹の話です』、直ぐ呼ばれて現場に向かったそうです、
でも瞳孔は開いていて、心拍数も無かったと、息をしていなかったのです。
処置室から出た母は、
畳敷きの和室に静かに横たわっていました。
母との最後の対面
私は母の顔を見る前に、着ていた服が目に入りました。
確かに母でした。
間違いありませんでした。
傍らには形のない麦わら帽子
その傍らには、形のなくなった麦わら帽子が置かれていました。
毎日の農作業で使っていた帽子です。
母が履いていたズボンは穴だらけでした。
生前の母の暮らしを知っているはずなのに、その姿がなぜか胸に突き刺さりました。
白い布を被った母をいつまでも見つめていました。
ショックでした涙が出ない
けれど涙は出ませんでした。
悲しくなかったからではありません。
あまりにも突然で、あまりにも大きな出来事で、何が起きたのか理解できなかったのです。
ただ呆然としていました。
遠くから聴こえる声
周囲では親戚たちの声が聞こえていました。
けれど、その声は遠くから聞こえてくるようでした。
まるで自分だけが別の場所にいるような感覚でした。
その日の朝まで元気だった母。
結婚式の招待状を手にして、嬉しそうに何度も見ていた母。
その母が、今は静かに横たわっていました。
私はただ、その姿を見つめることしかできませんでした
不思議な空間
当時、悲しみの中、部屋を見回すと私達兄弟の喪服が掛けられていることに気が付きました、部屋も整理されて、タンスやテレビなど、なにもなくなっていて、葬式を執り行う準備が出来ている様で驚きました、この当時は自宅で葬式を執り行います、母は自分が事故にあうのを予測しているようでした、
しかしこれは結婚式のためにかけておいた洋服、そしてテレビやタンスがなくなっていたのは
、その年の8月1日の台風の被害でお勝手の屋根が飛ばされた事を契機に家を立て直す計画があったためでした。
葬儀後の整理
葬式が終わって母のかタンスを整理してたら
・数千円しか入っていなかった財布が、見つかりました、
財布を開いて見ると数千円しかありませんですた、
・なぜ気づいてあげられなかったのか
こんな金額で次の収入まで繋ぎ留めなければならなかった、気づいてあげられなかった
情けなくって始めて声を上げて泣きました、
母が知らずに済んだ、悲しみ
母は47歳でこの世を去りました。2年ほど前には妹が乳がんで亡くなりました。父にとって娘との別れは大きな悲しみだったと思います。しかし母は、その悲しみに直面することなく旅立ちました。親が子どもを見送る辛さを思うと、それだけは母に経験させずに済んだのがせめて良かったと思います。


母が旅立ってから長い年月が過ぎました。
それでも囲炉裏の火を見ると、母の後ろ姿を思い出します。
財布の中の数千円を見た日のことも忘れることはありません。
人は亡くなっても、思い出まで消えてしまうわけではないのですね。
もし今、ご両親が元気でいてくれるなら、一度だけでも顔を見に行ってください。
電話を一本かけてみてください。
私はそれができなくなってから、その大切さに気づきました。
この記事が、誰かの家族を思う時間になれば嬉しく思います。


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